いざわっちの憂鬱!

ちょっとカチンとくるかもしれない、無色透明なオレオレ的ブログ

★お互いの何かしらの 「共通の課題」に取り組んでいる。

★違和感
左足の腓骨骨端線損傷の娘が
「左足の膝の裏が痛い!」と言い出した。

ギブスのかかと部分には歩行補助用のゴムがつけられている。
厚さは2cmほどあるだろうか。
松葉杖の時は足をつくことがほとんどなかったので
まだよかったのかもしれないが
松葉杖がなくなって多少歩行が許可されるようになると
足首が固定された状態で3cmかかとが高くなった状態での歩行は
常に片斜面を歩いているようなものだから、
からだにとってはさぞ苦痛なことだろう。

怪我をした当初から
「こうなるかもしれないけど、その違和感は大切にしといて」
そんな話はしておいた。
「違和感を感じ続けるのは機能が正常だから」
理解できたかどうかは定かではない。

ここを過ぎると
からだはいろんなところを歪ませて調整して順応を始めるのだと思う。
それがたとえ身を削るようなことになっても・・・だ。
大袈裟にいうと生きることを最優先にして
その他の不自由は目をつぶらざるを得なくなる状態。

だから、今後この状態でいったん違和感が解消しても
それは治ったわけではないと思う。

そこが今後の分かれ道。

怪我はもちろんだけれど
スポーツは言葉を変えれば
日々のからだへの癖をつける行為だ。

日々の癖つけが限界に達すれば
故障という形で現れる。

日々のからだへの感謝とリセットと労わりが必要なのは言うまでもない。

さて、
そんないたわりの気持ちで
両ひざ裏を探る。
右ひざの裏にその子は
「いた!」
左ひざ裏にも確かにいるのだけれど
何かしら訴えているのは右の子が顕著だ。

娘に聴くと
やっぱり右のほうが痛いという。

自覚的に痛いのは左の大腿二頭筋の腱の部分らしい。
腓骨の末端を損傷しているので
ここら辺に違和感が出てもそれは当然。

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右ひざ裏に触れながら

左の膝下の皮膚に手を置く
ほんの少し動かすと
皮膚が動きたがっている方向がなんとなくわかる。
ひざ裏も優しい感触になる。
あえて娘にも皮膚感覚の良い方向を聞く。

ひざ裏が優しく変化することと
娘に好き嫌いを聴いた結果と
皮膚に触れる手の感触がリンクする。

聴かなくても
大体わかるけど
一方的なのは押しつけというものだ。
この世界では「下の下」と言われる。

押しつけてもいいけれど
押しつけないことを選ぶことにする。

時間も手間もほとんど変わらないなら
なるべくより良い選択をする。

こんなことが出来るのは
娘の高い治癒力、潜在能力があってこそだ。
そこに最大限の敬意をはらう。

さてと10秒くらいしただろうか
脈が出てきたのと
膝下の腓骨が「コン」って動いたので
今回はもう十分なようだ。

からだって何かしらの合図をこうして出してくれる。

「どう?」
「あ~~痛くない!!」
目をキラキラさせてこう言った。

ほんの10秒程度でも
娘の治癒力、潜在能力と
ぼくの治癒力、潜在能力が
何やら言葉には表現できないコミュニケーションを
コソコソやっていたように感じる。

毎度のことで
残念だけれども
そのコミュニケーションの内容は頭では理解できない。
でも何かしらの「共通の課題」に取り組んでいるようでもある。

操体法の創案者の故橋本敬三医師は
「治療など下の下」と表現しているけれど
きっと
治療者、被治療者は上下関係ではなくて
お互いの何かしらの
「共通の課題」に取り組んでいる。
そういった認識を持て!と言っているのではないだろうか?

 
これを書きながら
自分にとって都合のいい解釈をする。