いざわっちの憂鬱!

ちょっとカチンとくるかもしれない、無色透明なオレオレ的ブログ

★愚鈍

★夏色
スキーと操体法には共通点が多い。
連動と呼ばれる本来のからだが持つ動きと
スキーのからだの動きは酷似している。

それは気持ちの良さを引き出す動きでもある。
足裏にしっかりと圧を感じながら
からだを貫いていくような軸感は
この上ない快感を内面から引き出す。

同時に安定感と躍動感という相反する要素を
調和させていく。

競争がとても不得意なので
ぼくにとってのスキーはタイムを競うものでも
点数を競うものでもない。

からだの感覚を利用しながら
気持ちの良さをひき出す
限りなく自己満足スキーだ。

ヒトのからだの構造機能には昔に比べて大きな変化はないと感じている。
退化する要素は多々あるけれど
進化する要素は少ないと感じている。

要は
ヒトは鈍くさくなっている。

先日、多分1回しか乗っていない
ちょっと太っちょなスキーをお嫁に出した。
国産の高級品だ。
乗る機会が無くなったと感じたからだ。

それでも
同じブランドで
それよりもウエストが1cm太いスキーは残している。
でも、乗る機会は少ないのかなって思う。

今では貧弱と呼ばれるスキーが本当に面白い。
47歳には4.5世代の戦闘機のような道具は持て余し気味なのかもしれない。
反面、複葉機のようなすべてマニュアルのような道具を走破性やスピード次元が低い中でいかに操り乗りこなすかにパズルのような面白さを感じる。

道具の性能が低いのではなくて
操る人間の能力感性をひき出す高性能な道具といえる。

革靴・205cmの細板
カンピンモドキK3
未だに金具がついていない新品の210cmのピンクのオスネス

からだの感覚を最大限に引き出しながら
同時にからだの中に気持ちよさを強烈に感じるから不思議だ。
感覚と状況をどのように調和させるのか?

スキーを教えるときも
操体法を教えるときも

形は最小限にすることにしていた。
形に重点を置いてしまうと
自分ではその形を見ることができない。
自分以外に依存の度合いが大きくなる。
良いとか悪いとか言われてもピンとこないのは
形に依存しているからだ。

感覚は自分自身のものだ。
感覚さえつかめていれば
自分自身でその変化を感じることが出来る。
その感覚を大胆かつ繊細にして行くように導けば
そこから形は自然に生まれると考えている。
一人でも十分に楽しみながら練習ができる。
結果的に効率の良い滑りになっている。

感覚を磨くには場所と時はあまり関係ない。
普段の動作
ドアの開閉ひとつから磨くことが出来る。

普段の動作が雑な人はその分伸びしろがあると思う。
何かの競技に打ち込んで成績をもう一歩あげたい人は
普段の動作、立ち振る舞いを丁寧にすることがお勧めだ。
さらに一歩、進化の可能性はより大きくなると思う。
お金も時間もかからないメリットは大きい。

トレーニングメニューには変わりがなくても
その精度が急速に向上する
メニューではなく
感覚を通じてからだを操る精度が大胆かつ繊細になるからだ。
からだのトラブルも減少する。

痛いのを大切にしない人間=自分の感覚を大切にしない人間=どんくさい人間

そう思うよ。

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